◆もう嫌だとて



──目の前に放り出されたそれは、まるでぼろ雑巾のようだった。





数人がかりで運ばれて来た彼は、床に投げ出すようにして落とされた。
どしゃり、と鈍く酷い音がする。濃い鉄の臭いが鼻をつくと同時に、血の気が一気に引いていく。

手にしていた筆も、机上に堆く重なった『お役目』の山も崩す勢いで放り出し、膝をついた。運んで来た人間たちは、何の弁解もなくいつも通り早々に退室した。
床に広がる血溜まり。打たれ、引き千切られ、折られ、削られたと思しき無数の傷。四肢には拘束具のように有刺鉄線が巻き付いており、肉どころか骨さえ見えている始末。それを縄代わりにして、先ほどまで宙吊りにされていたのだ。
治りが牛の歩みのように遅いのは、身体が限界まで疲弊するほど痛め付けられていた所為なのだろう。心身共に丈夫だと言っていた彼の意識は今のところ、ない。
ぎん、と彼の名を呼んだ。
返事はない。
「……もう、嫌だ」

そう呟くとともに、ぼろりと大粒の涙が零れ落ちる。
二度、三度と彼を呼ぶ。

だが、いつものように不機嫌さを隠しもしないで、眉間に皺を寄せながらも律儀に応えを返す彼はいない。
血を流し過ぎたのだろう土気色の顔を覗き込み、誰も聞くことのない言の葉を落とし続ける。誰にも聞かれないのだからと、泣き声を我慢することを止めた。頭を抱え、身も世もなく童のように泣きじゃくる。

何十回、何百回、何千回──『研究』という名の一方的な武力による凌辱の回数を、私は正確に数え続けている。
いっそのこと、気が触れてしまえたなら良かったのに。私にはそんな権利すらない。

いつだったか──『研究』とやらには、私の協力が必要不可欠なのだと、誰かが言ったのを憶えている。

その言には「このお方には『お役目』があるから、其方に時間を割くことは出来ない」「不敬だ」などと異を唱える誰かもいた。そんな暇があるのなら、『お役目』に時間を費やすべきだとも。
「──いつまでも引っ掻き回してんじゃねぇぞ、爺ども」

そんな収拾のつかない話し合いを収めたのが、銀の一言だった。私は初めから、どうせ此方の言い分など通らないのだろうと諦め、他人事のように沈黙を決め込んでいたものだから、とても驚いた。
私の傍らに立っていた彼は一歩、私よりも前に立つ。
そうして、「さっきから聞いてりゃ、老い先短い野郎どもがぐるぐるぐるぐると……長い上に鬱陶しい」と吐き捨てる。

「あんたたちにとっちゃ、此奴を利用するのは『不敬』なんだろう? ……それならその『研究』とやらには、俺を使ったほうが色々と都合が良いんじゃねぇのか」
──散々此奴を利用して来た癖に、どの口がそんなことを言うのか。
ぼそりと、そんな言葉が聞こえた気がする。

私と口喧嘩をしているときとは打って変わって、静かで──とても冷ややかだった。
夏になる度に、彼が私に食べさせてくれる氷菓子よりも、ずっとずっと冷たい。否、そんな比ではない。
もう随分と長く一緒にいて、互いのことは何でも知っている筈なのに、まるで聞いたことがない声音だった。彼の背中を見る私から、その表情は窺えない。
呆然とする私を他所に、誰かはその一言を待っていたとばかりに手を打った。
そうしよう、ありがたい、確かに君なら彼の代わりには不足がない、我々も不敬罪にも問われない──そんなことを言っていた気がする。
諸手を挙げて喜ぶ男たちを前にして、静かに、銀は彼らの要求を呑んだのだ。






──彼らの顔ぶれは、今現在、どの程度変化したのだろうか。





嫌だ、と。どうして、と。
駄々を捏ねるように頭を振った。

──何故? 馬鹿馬鹿しい。そんなこと、自分自身がよく分かっていることだろうに。お前の所為だ。お前が彼をそうさせたのだ。

見知らぬ幻影が私を詰った。

──彼はもう長いこと、お前以外の者に名前を呼ばれない。それは何故だ?
「……やめて」

──あのときだって、「憎んでくれて良い」「恨んでくれて良い」などと宣った癖に。所詮、お前は『お仲間』が欲しかったのだろう? 『永久の月』よ。

「やめてよ……」
──手前勝手な理由で、斯様な地獄の坩堝へ彼を叩き堕とした癖に、何を被害者面しているのか!

「やめてってば……!!」

やめて、やめて。止めろ。

床を叩き、幽鬼のように長い髪を振り乱し、泣き喚き、誰でもない何かに反駁する。
嗚咽を漏らしながら、彼を拘束する有刺鉄線を素手で乱暴に掴む。強く握り込んだ所為で皮膚が裂ける。力任せに引っ張った所為で幾つもの刺が肉を破り開き、鮮血が溢れる。熱く、鋭い痛みに、歯を食いしばった。うう、うぅ、と痛みの余りに泣き声に混ざって、呻き声が漏れる。
そうしている内に、涙でぼやける視界の中で、微かに彼が身じろいだのが分かった。

「銀…?」

薄らと目を開けた彼は、まだ何処かぼんやりとしているようだった。
ほんの少し安堵しかけたが、今にも意識を何処かにやってしまいそうな様子に私は青ざめる。必死に彼の名を繰り返して呼ぶと、どうやら此方の声は届いているらしく、ふっと二つの紅玉が私の姿を映す。
きっと私は酷い顔をしている。ずっと泣き通しだから、間抜け面も良いところだろう。いつもの彼なら「阿呆面」などと鼻で嗤って小馬鹿にして来る筈なのに、今はそんな言葉すらない。

どうしたのと言いかけて、はく、と銀の唇が小さく動くのを見た。何か言わんとしたのだろうが、何故かそれは音にならずに空気が漏れるだけに留まった。
諦めたように、その口が一度、閉じられる。

其処で──嗚呼、喉を潰されたのだと思い至り、私の涙腺はまた馬鹿になった。
絶叫して、机上の『お役目』を全て破り棄てたい衝動に駆られた。
「ごめ、…御免、御免ね、…銀、御免…! 本当なら、それは私の役割の筈なのに…!」
ごめん、ごめんね。
壊れた絡繰り人形のように謝り続け、泣きじゃくる私を前にした彼は、僅かに眉をひそめた。

その表情が、何処か困ったように見えたのは、私の気の所為だろうか。