◆心臓に悪いのだ


──遠くで、誰かが、泣いている声がする。
それは、いつも俺を揶揄してはその反応を見て愉しもうとする、性格がどうしようもなくひん曲がった男の声に似ている。



*



次第に覚醒する意識は、気が触れていなければ可笑しい程の痛みを伴ってゆるゆると浮上した。
見知った天井だ。ついでに、四肢の感覚が殆どない。

ぽつ、ぽつり、と降って来た雨を受けて、成程と思った。
全てが終わった後でおざなりに此奴の前に放り出しやがったな、あのクソ野郎共。

ぎち、と奥歯を噛み締めたつもりが、力が上手く入らない。
そうしている間にも泣き声の発生源は、肉も骨もぐちゃぐちゃの俺の四肢に絡まったままになっている──無数の有刺鉄線を解こうと躍起になっていた。
其奴は、細長い指先や生白い掌が裂けて鮮血を滴らせるのもお構いなしに、力任せに引っ張り続けている。
お前、馬鹿だろ。素手でそれが千切れるとでも思ってんのか。
そう言おうとして、喉が潰されていることに一拍遅れて気が付いた。
嗚呼、今回は声が煩いと喉をやられたんだったか。
あんな口にするのも悍ましいことを強いておいて、声を上げるなと言う方が無理だろう。頭沸いてんじゃねぇのか。舌打ちするだけの体力も残っていないため、心の内だけで盛大に憎々しげに舌を打つ。
今の所は、指先一本動かせない。長い間、執拗に嬲られた身体が『回復』するためには、まだもう少々時間を要する。
「──────」

しかし、眠い。
本来、俺たちに睡眠は殆ど必要がない。精神的な回復を促すツールの一つなだけであって、必ずしも摂らなければならないものではない。だが、極限まで傷付けられて血を失い過ぎた身体は、眠ることで身体機能を一時的にシャットダウンして、その分のエネルギーを肉体の回復にのみ集中出来るのだろうと──この国随一という研究者が宣っていたっけか。

「銀…?」
俺の意識が戻ったことに漸く気付いた其奴は、昨今ではもう奴しか呼ばない名を口にした。
日に焼けることを知らない白いかんばせが、いつも以上に真っ白くなっていて、病人のようだった。その上、見開かれた二つの夜空からは、はらはらと止めどなく涙を流して、何度も何度も馬鹿の一つ覚えのように俺の名前を繰り返した。
嗚呼、何でテメェがそんなに泣くんだ。いつもみたく俺を下らないことで揶揄って、太々しく笑っていれば良いものを。全く、相変わらず面倒な生き方をしている男だ。
「ごめ、…御免、御免ね、…銀、御免…」

──本当なら、それは私の役割の筈なのに。
こんなときにしか聞けない弱々しい謝罪と涙の雨が降り注ぐ。それを薄ぼんやりとした意識を保ったまま聞いている間に、喉が多少『回復』したらしい。
あ、と声を出そうとして、激しく咳き込んだ。喉奥に絡まっていた粘っこい血の塊を吐き出して、泣きながらおろおろとする男に今度こそしっかりと焦点を合わせた。

ペンチ、と辿々しく呟けば、其奴はハッとして慌てたように自分の袖から此方の望みの品を取り出した。流石、むかつくことに嫌な所まで『視て知って』いやがる。そもそも、それを持っているのなら、何故素手でこれをどうにかしようと思ったのか。
無論、その答えは分かり切っているけれど。

ぐす、と鼻を啜る音。
ぱちんぱちんと音を立てて一つ、二つ、丁寧に有刺鉄線を切断していく様子を黙って眺めていた。四肢を拘束していたものがなくなったことで、無惨に抉れていた肉や折れていた骨が順調に修復を始める。痛みはあるものの、拘束を外されて多少楽になったことに、ほうと息を吐き出した。
次第に傷が塞がっていく右腕を持ち上げる。未だに泣きじゃくる男の頬に手を伸ばそうとして、掌──と言うより腕が、血塗れのままであることに今更気が付いた。

一瞬躊躇して宙を彷徨う俺の手の意図を汲んだらしい其奴は、汚れることも厭わずに鮮血に塗れたそれを手に取って、自らの頬に添えた。
互いの傷が塞がっても尚、残り、滴る鮮血が混ざり合う。
「…ごめんね」
「……謝んな」
「でも」
「…言ったろ…。てめぇ、…より、俺のほうが……丈夫、なん、だよ……」

もう何十回、何百回──数えるのを止めた程には繰り返して言ったことだ。
それでもこの男には、繰り返し言い聞かせてやらないといけない。
「……無理して、喋らないでよ」

全部治るまで、静かに待っていて。
そう言いたいのだろう。ぽろりと頬を滑って落ちる涙の粒が、俺の頬に落ちて弾けた。

「てめーが、…泣き喚くから、だろうが」
「泣いてない」
「嘘つけ。…鏡、見て来いよ」

言えば、月読は眉根を寄せて押し黙る。本当に、昔から面倒な男だ。此奴は、俺のことが嫌いだ何だと口癖のように宣う癖に、こうして毎回泣くのだから。
その言動の本質を、理解している。きっと、目の前にいる男よりも俺の方が、ずっと正確に。
此奴は、そうしないといけないのだと、勝手に思い込んでいるのだ。そして、そういった言動が目立つようになったのは、もう随分と前の話だ。
原因は分かっている。だが、俺はそれに触れてやらない。
勿論、腫れ物に触るように接することもない。目の前の男には、それが必要不可欠なのだ。

くっ、と喉奥で笑いが込み上げる。
その反応に、月読は訝しげに此方を見下ろして来る。泣き止みはしたものの、泣き過ぎた所為で目が真っ赤だった。そして、いつもの調子を取り戻し始めたその男は「こんな状況で唐突に笑うだなんて、ちょっと気持ち悪いんだけど」と投げ付けて来る。
煩ぇな、などと言いながら、それで良いのだと、俺は思う。

「そうやって、テメェは、いつも通りむかつく言葉並べて、腹立つくらいに踏ん反り返って、……そんで、笑ってろ」
この男の泣き顔は、心臓に悪いのだから。