◆髪を切る



――ジャキン、と不意に聞き慣れない音を聞いた。


じゃきん、ばさっ、じゃきん、ばさっ。

聞き間違いではなく繰り返されるそれに、鷲峰銀は嫌な予感がして腰を上げる。
年季の入った仕事用のデスクには、彼を「犬」と呼んで憚らない男が先ほどまで認めていた『書類』の山があった。銀は処理済みの物を分かるように端に寄せてから、隣室の扉をノックもなしに乱暴に蹴り開ける。
ただただ広いだけの『作業部屋』の中央には、件の男が座り込んでいた。室内は照明が殆ど落とされているため、薄暗い。しかしそれが気にならないらしい彼は、大振りの裁縫鋏を無心に動かしている。
部屋の天井から無数に吊り下げられた、床まで長く伸びる薄っぺらい布の群れーー外部の者は『天の羽衣』と呼んでいるーーを煩わしく払いのけながら足早に近付けば、月読弓弦は其処で漸く銀の存在に気付き、顔を上げた。
あれぇどうしたの、と暢気に訊いて来る男の足元に広がる惨状を見て、銀はあからさまに眉間に深く皺を寄せる。

「テメェ……、何してやがる」
「何って、髪を切っているんだよ。見て分からない?」
「……それは見りゃ分かる」

月読の足元には無造作に、大量の長い髪が広がっていた。それは、長身の彼を遥かに上回るほどの長い、長い――艶やかな黒髪。
こいつの髪をいたく気に入っていた上の連中が、この現場を見たら卒倒すること間違いなしだな、と銀はぼんやり考える。それから、当然のようにその辺に放り出されていたゴミ袋を手に取り広げると、ゴミ同然となった月読の髪を集めて放り込んでいく。わざわざこんな処に落ちていたということは、『そういうこと』なのだろう。
月読は、銀がこの部屋に飛び込んで来ることを知っていて、予めゴミ袋を用意しておいて後始末をさせるつもりだったのだ。お互いに、もう随分と長い付き合いになる。このくらいでいちいち確認を取る必要はない。
その間も何故だかご機嫌な様子で鼻歌まじりに容赦なく髪に鋏を入れる月読を一瞥して、「それで?」と疑問を投げかける。

「何で今になって切ろうと思ったんだよ」
「それは勿論、外に出たいと思って」
「へェ、お前が外にねぇ……、――は?」

とんでもない言葉が聞こえた気がする。
髪を集めていた手を思わず止めて、顔を上げる。しかし月読はその反応すら想定内だと言わんばかりに「そうだよ?」とあっけらかんとして続けた。

「だって、髪がこんな長くては下手に外を出歩けないじゃないか。最近の子たちは、銀みたいに短いんでしょ?」

『外に出る』。
そう言って、いつも通りの無邪気な笑みをその顔に浮かべている。銀は、自身の頬が引き攣るのを感じた。
こういうときのこいつの笑顔は『駄目なヤツ』だと、経験上知っている。こうなったら、きっと梃子でも動かないとも。そんなことは、嫌でも知っている。

――だが。

「……お前、本気かよ?」
「私がこの手の冗談を言うと思うのかい?」

銀は真意を探るように月読の瞳を見つめた。だが、夜空のような瞳の中に浮かぶ二つの三日月に、迷いという感情の色が一切見受けられないのを察すると、呆れたように額を手で覆う。

「下らねぇ冗談は日常茶飯事だが、こういうのはねぇな。……待てよ。じゃあ何か? テメェが最近、妙に良い子ちゃんで『オシゴト』に打ち込んでたのは、それが理由か」
「そういうこと!」

大正解、良い子のワンちゃんにはご褒美をあげなくっちゃね! とわざとらしく喜んで手を叩く月読に、銀は苛立って聞こえよがしに舌を打つ。この場に外部の者がいたならば胃を痛めるほどの緊張感が張り詰めた空間だが、今は当人同士しかいないので大した問題はない。しかし、思ったような銀の反応が得られなかったからだろう。月読は「意外と反応薄くて詰まらないなぁ」などと宣い、興味をなくした様子で再び鋏を動かし始める。
それを見下ろす銀は、「今更」と低く唸るようにして呟く。無意識に、革の手袋を嵌めた手を強く握り込む。

「今更、外に出て、どうすんだ」

返事はない。
銀の望んだ答えは返って来ない。

けれど、月読はそこで初めて、困ったような笑みを浮かべて銀を見た。

「…………」

その反応だけで十分だった。
今の今まで、不機嫌そうに眉を顰めていた彼のお目付け役は、その笑みを認めたと同時に表情を消した。感情の一切浮かばぬその顔が、静かに月読を見下ろした。

十数秒ほど、間を置いて。
深く、深く――これでもかと長い溜息を吐き出した。
それから、腰に手を宛てたまま、月読に向けて、ずいと手を差し出す。だが、月読はその意図を汲み取り損ね、きょとんとして銀とその手を交互に見た。

「? どうしたの」
「……貸せ」
「え、なに?」
「鋏だよ莫ァ迦! 俺が切ってやるっつってんだ。テメェがやってっと、最終的には目も当てられねぇざんばら髪になるに決まってんだろ!」

言い終わる前に、焦れた銀がその細腕から裁縫鋏を引っ手繰る。
当然月読は、「何それ酷い言い草なんだけど!? どチビの銀に貶されるだなんて生涯の汚点でしかない!」などとぎゃいぎゃい喚くが、「誰がどチビだぶん殴るぞこのポンツクゴボウ野郎!」とその頭頂部に容赦なく拳骨を落とす。そうすれば、ぎゃあっと色気のない悲鳴が上がった。

「痛い! もう殴ってるじゃん莫迦! そうやってすぐ暴力に走るのってホント最低! 莫迦莫迦、銀のどチビ脳筋ばーか!」
「黙ってろや! マジでざんばら髪にしてやっぞテメェ!」

元より俗世から隔離された此処には『仕事の用事』がない限り、外部の人間が訪れることはない。いくら騒ごうが、文句を垂れる者はいない。
そんなただ二人きりのこの場所で、いつも通り低レベルの詰り合いをしながら、鷲峰銀は月読弓弦の髪を切った。




――しゃきん。