頼みがある、と電話口の向こうの男は言う。
開口一番、挨拶もなしに告げられた言葉に、珍しいこともあるものだと咲月武虎は首を傾げた。
ウィリアム・エルフィンストン。
齢二十歳。彼との初対面は、武虎が高校三年生にまで遡る。そこでまあ、彼とは色々とあったものだが、今は割愛しよう。
さて、話を戻すが、このウィリアムという男は、武虎が知る限り基本的に他人に『頼む』ことをしない。――否、語弊があるか。
この男は『命じ』はすれど、『依頼』はしないのだ。何事にも素直になれない彼は、あれをしろこれをしろとは言えど、頼まれてくれるか、などと他人を気遣った物言いが出来ない。命令という形でしか他者にお願い事が出来ない、不器用な御仁なのである。
そんな男であるから、冒頭の科白は意外性に富んだものだった。
「いーぜ、何でも言ってみ? ――ああ、…でもちょい待ってな。」
武虎は、空になったカップにお代わりを注ごうとしていた友人を手だけで制して、席を立つ。英国と日本の時差は9時間。武虎は丁度、友人が日課にしているアフタヌーンティーにお呼ばれしているところだった。
今日のブレンドは、日本人の舌によく馴染む、すっきりとした味わいのセイロン・キャンディ。二段のケーキスタンドには、焼きたてのスコーンとサンドイッチが載っている。シンプルな味付けのスコーンに添えられるのは、クロテッドクリームとストロベリージャム。サンドイッチの具は、スモークチキンとチーズ、それから半熟に焼いた目玉焼きである。これが、トーストしたホワイトブレットにマーガリンをたっぷり塗ったものによく合うのだ。
武虎が、食べかけのサンドイッチを取り分け皿に戻すと、正面に座した翠玉の瞳が、少しだけそれを見咎める。食事中に行儀が悪い、という心の『声』が聞こえたので、苦笑いしつつ手の仕種だけで謝罪した。
外に出て、玄関ポーチに腰を下ろす間にも、受話器越しに沈黙を守っている彼の『声』には様々な『色』が乗っている。動揺、怒り、悲しみ――珍しい。彼との付き合いはそう短くない筈だが、これは今までに聞き味わったことのないものだ。
『ふん、いつもの女のところに入り浸っていたか。逢瀬に水を差してしまったようで忍びないな?』
「はいはい。」
普段通りを装うウィリアムの揶揄を軽く流せば、不満げな反応が返ってくる。
このやり取りももう慣れたものである。正確に言うと、アフタヌーンティーを共にしている友人は、女でもなければ恋人でもない。だがそれを否定しても、「ハッ、毎日三食作って甲斐甲斐しく世話を焼いてくるような者が友人という枠に収まる訳がなかろう。」というのがウィリアムの弁だ。彼以外の友人も同じような理由で否定するものだから、武虎は今日も今日とて否定もしなければ肯定もしない反応だけを返すようにしていた。
「それで? お前の頼み事ってのは何だよ。」
『人探しだ。』
「……はい?」
『だから人を探していると言っている。』
「いや、それは聞き取れたけど。」
思わず聞き返してしまった。
人探し。それなら尚更、自分が出る幕ではないと思われるのだが。
ウィリアムの実家――エルフィンストン家は、戦前から続く名家である。英国に本店を置き、世界各地に支店を持つ大手玩具メーカーだというが、年月を経て少しずつ作り上げた情報のパイプラインは非常に優秀だ。彼と、彼の家が本気を出せば、人一人を探し出すのも苦ではない。そうウィリアムも自負している筈である。
武虎が言わんとすることを汲んだらしい友人は、ふんと鼻を鳴らし、
『対象も情報戦を得意とするらしい。尻尾を捕まえたと思ったら、全ての痕跡を消された後だった。…そんなことが繰り返されているのが現状だ。』
「へえ。そりゃまた厄介だな。」
その時点で、相手にしている人間は一般市民ではないだろう。
『ああ。……こんなことで貴様の手を借りたくはなかったが、状況が進展しない今、消されない情報を引き出せる貴様が必要だ。』
幾ばくか閉口したウィリアムから聞こえる『声』には迷いがあった。武虎を本当に巻き込んで良いものか、彼は迷っている。武虎がウィリアムの数少ない理解者であると同時に、ウィリアム自身も武虎のことをよく理解していた。
咲月武虎という男は、他者の思考を余さず『声』として聞くことが出来た。
彼が『聞く』のは、生者死者問わず。人間、それから動植物。この惑星に生きる(生きた)もの全ての思考(感情)。ただ、その情報量は只人にはあまりに膨大だった。だからこそ普段は、ラジオのように聞きたい『局』を選択して、ボリュームを限界まで絞っている。
忌々しいことに、『聞かない』という選択肢は存在しない。このオーディオデッキを壊すことは出来ない。勿論、電源を切ることも不可能だ。
故に、常に『聞き』続けなければいけない。それが、咲月武虎という存在である。
「……。」
ウィリアムの言う、『消されない情報』。それが何を指しているかは、言われるまでもない。要は、武虎に他者の思考を『聞いて』その手がかりを掴んで欲しいということだろう。
しかし、電話口の向こうにいるウィリアム・エルフィンストンは迷っている。その頼み事が、どれ程武虎に負担をかけることになるのか、正しく理解しているからだ。表面上は非常に分かりにくいが、本当のところはどうしようもなく優しいのだ。この男は。
それが分かっているから、武虎は人知れず苦笑を零した。また面倒なことに身を投じようとしているなあ、と小さく吐息した。
「わかった。滅多にないお前の頼み事だからな。……で? お前は誰を探してんだ。」
『ふん、貴様は受話器を通してでも心を読めるのではなかったのか?』
「『聞こえて』はいるけど、一応確認してんだよ。」
大体今のお前、色んなこと考えてて『声』がごちゃごちゃじゃねーか。
そう返せば、不遜だった声音が幾分か落ち込んだ気がする。嗚呼、無意識だったか。どうやら、これまた珍しいことに、今のウィリアムには多少冷静さが欠けているらしい。
武虎はそれを追及することなく、「それで?」とウィリアムに問いかけた。
「お前が探してるのは、『冬凪ロウ』と『卯ノ花朧』……どっちだ?」
『……。』
暫しの沈黙の後、ウィリアムは口を開いた。
現在、探している男の名は『卯ノ花朧』。
過去に、探していた男の名は『冬凪ロウ』。
後者は、ウィリアムとその幼馴染である深桜かすかを可愛がっていたという男の名であった。彼女が頻りに「会いたい」と『声』を零していたその男は、行方不明になっているとのことだったが、どうやら『聞く』ところによると死んでいたらしい。
成る程、そうであればウィリアムの動揺も頷ける。
『……俺は、卯ノ花朧を探し出し、ロウの死の真相を明らかにせねばならん。』
(そして、ロウの死に釣り合うだけの存在価値を持つ男なのか、見定めてやる。)
ウィリアムはあくまで冷静に――だが、煮えたぎる怒りの感情をその声に滲ませた。
武虎はそれを聞きながら、「そうさなぁ。」と応えるだけだった。