英国はそのお国柄、雨が多い上に冬には雪も頻繁に降る。
この季節は、防寒着の着用は勿論、常に雨具がマストアイテムである。しかし、その煩わしさを除けば、冷え込みの厳しい日本より割合快適に過ごせる気候とも言える。無論、寒いのに変わりはないが。
その日のロンドンは、雪が降っていた。天気予報によれば、昨日の晩から続くこの雪は明日まで降るとのこと。朝早く、ネットニュースでその情報を仕入れたところで、大学から履修している講義の全てが休講になったというメールが届いた。積雪からの電車の運行中止を危ぶんだがゆえの判断だろう。
いくつか掛け持ちしているバイトのシフトも、今日は夜からだ。昼間の予定がすっかり空いてしまった武虎は、スマートフォンと財布を尻ポケットに突っ込んだ。それから、玄関先に立て掛けておいた傘を掴み、アパートメントを後にする。
行き先は、友人のアリシア・ガードナーの家である。目的は勿論、日課にしている彼の朝食のご相伴に預かりに行くためだ。
――その予定だったのだが。
「……なにやってんだ、あいつ」
呆れ混じりの溜息が、白い吐息となって宙に溶ける。
武虎は、立ち寄ったコーヒーショップでテイクアウトしたばかりのコーヒーを片手に、ぼんやりとベンチに座る少年を遠目に見た。
少年の名前は、ルース=ヒル。ある事件以来、友人のアリシアによく懐いている『少し抱えた』少年である。
褐色の肌に、白い髪と色彩の異なる大きな瞳。その独特の色合いが、遊歩道の冬景色から妙に浮き上がって見えた。こうして道端でルースを見つけるのは二度目である。しかも薄っぺらいコートを一枚羽織っているだけのようで、端から覗く首や膝小僧が見るからに寒そうだ。
予定変更。大股にルースに歩み寄って、その小さな身体に傘を傾けた。
「ルース」
「……タケトラ?」
声をかければ、一拍置いてルースは顔を上げた。
反応が鈍いな、と思う。それもその筈だろう。遠目からでは分からなかったが、ルースの頭や肩には真っ白な雪がこれでもかと積もっていた。
『アホか!』
思わず日本語が、口について出た。
大きな目をぱちぱちとさせるルースを他所に、傘を一度地面に放り出し、 彼に降り積もった雪を払い落とす。それから、着ていたダウンジャケットを脱いでその肩に掛けてやった。幸い、大人と子どもだ。体格差があるため、武虎のジャケット一つでルースの身体をすっぽりカバーできる。暖かければそれで良い。
「……さむい…」
「ったりめーだ。お前、こんなところで何してんだよ。見てるこっちが寒いだろうが」
「…タケトラは寒くないの」
「寒いに決まってんだろ」
武虎は顔を顰めて傘を拾い上げ、雪が彼に降りかからないように傾けてやりながら、空いた手で腕を擦った。防寒の一役を担っていたジャケットがない今、武虎の上半身はロングTシャツ一枚と心許ない。
「……レアが、着て行けって言ったけど」
――コートを。
――マフラーを。
――着て行きなさいと言ったけど。
――でも、受け取れなかった。
――飛び出して来た。
――どうして、なんで。
武虎の『耳』に届くその『声』は、子どもにしてはひどく静かで、淡々としている。今日は随分、彼の『内側』は混乱しているらしい。
「…わからない」
――今は、あたたかい、けど。
――さむくないけど。
「……」
その落とされた呟きに、武虎は目を細めた。 『心の声』は正直だ。まとまらない『声』をひとつひとつ拾い上げ、その音の色を吟味する。
暖かい、寒い、とこの子どもは表現するが、要するに彼は無条件に『愛情』を与えられることに慣れていないのだ。彼の境遇はそれなりに『聞いて』知っている。
彼の『内側』を解きほぐしてやることは容易ではないが、不可能ということもない。時間をかけて『愛情』を注ぎ続ければ、普通の子どもと同じようになれるかもしれない。
太陽の下、何の心配ごともなく、ただ普通に笑える子どもになって欲しい。
そう武虎は願っている。
「俺、今からエルシィんちに朝飯食いに行くとこなんだけど、ルースも行くか?」
「行く」
それだけは迷いなく応じる子どもに、大人は思わず笑ってしまった。