◆無防備な主人

 

 「好きなんだ」

 

 暁くんのことが、と付け加えられたことにより、それが自分に向けられているのだと理解する。後半の台詞がなければ、「何がですか」と問いかけていたことだろう。

 

 

 

 

 帰りのSHRを終えた後のことである。

 その日、いつも通り帰り支度を済ませて家路につこうとしていた暁八尋は、昇降口を出た所で見慣れない人物に呼び止められた。

 学校指定の制服を校則通りに着こなしたその男子生徒は、襟の学年バッジを見る限り上級生らしかった。相手が自分の名前を呼んだので知り合いかと思ったが、そうでもないらしい。

 此処じゃあなんだからと言われ、体育館裏について行った所で冒頭の告白である。

 

 「……」

 

 どうしよう。

 此処で言う「好き」の意味を理解するのに少々時間を要した。時々、女子生徒に呼び出されては同じような告白を受けているが、相手が男子と言うのは初めてだ。

 いつもの調子なら、「ごめんなさい」と言って丁寧に頭を下げる所だったが、認識と行動が遅れたことで事態はあらぬ方向に転がった。

 

 「……(あれ、)」

 

 

 ――ぐるり、と世界が回った気がした。

 

 気が付いた時、八尋は冷たい地面に転がされていた。

 急に狭まった視界には、その男子生徒でいっぱいになっている。後頭部に衝撃がなかったのは、自分の後頭部に回された手が要因らしい。そして、目の前の男子に覆い被さられているのだ、と理解したのはその後のことだった。

 場所の都合上、常に日陰になっているこの体育館裏は、使い古されて錆びたゴールネット以外何も見当たらない。第二コートの隅に設置されている此処は、余程のことがない限り人がやって来ない。だから、此処は逢い引き場所にぴったりなのだと誰かが言っていた。

 そんなぼんやりとした記憶を辿った所で、八尋は自分の制服にかけられた手に気が付いた。

 

 「…あの、…」

 「抵抗しないってことは、イイってことだよな」

 「…?」

 

 『イイ』、って何がだろう。

 目の前の男子生徒が、自分の詰襟のホックを外す。はぁ、と荒く吐き出される熱い息が顔にかかり、ほんの少し目を細めた。その黒い瞳には、何やら見覚えのない獰猛な獣が潜んでいるように思われた。

 これは、まずい、かも。

 何となくそう思った八尋は、そこで漸く手を伸ばした。しかし、そんな抵抗とも認められない行動など意にも介さず、男子はその顔を更に近づけようとした――所で、後方から黒い手が伸びて来た。

 

 

 ぐん。

 

 

 いや、そんな生易しい音ではなかった気がする。

 黒い手――もとい、黒の革手袋を嵌めた手は、尋常ならざる力で男子を後方へと引っ張った。

 

 「……グ、ぇっ…?!」

 

 当然だが、その勢いで制服の襟に喉仏を強く圧迫されらしい。蛙が潰れたような無様な声が上がる。

 その手は、そのまま男子を乱暴に地面に投げて転がし、パンとひとつ手を払った。一方で、視界が急にクリアになった八尋は、ぱちりと目を瞬かせた。

 

 「……朧さん…」

 

 八尋の視界が新たに捉えたのは、蝋色のスーツと濡羽色のネクタイを締めた長身の男である。彼は、容赦なく放り投げた男子生徒には目もくれず、音もなく八尋に近寄った。そして、八尋の背中に手を回してその上半身を起こす手伝いをしてくれる。

 

 「坊ちゃん、大丈夫ですか」

 「……」

 

 こくん、とひとつ首肯して見せれば、「そうですか」と抑揚のない声が応える。眉ひとつ動かさない卯ノ花朧は、無表情のまま八尋の背中の土を丁寧に払った。それから、僅かに乱された八尋の制服を整える。

 彼は、最近八尋の護衛兼お世話役として雇われた人間だ。当主にどんな心境の変化があったのだろうか。 十五歳の今になって護衛をつけられるとは思ってもみなかった八尋は、彼を紹介された時、内心困惑したものだった。

 表情の変化が全くない長身の男は、基本的に八尋の傍にいる。流石に学校に行っている間はその姿を見ることはないが、先ほどのように何処からともなく現れることがある。

 今日もまた、一体何処にいたのだろう。

 いや、それよりも。

 

 「…朧さん、あのひと…」

 「大丈夫です、加減はしました。あれは気絶しているだけです」

 

 地面に転がっている男子生徒に視線をやりながら朧の袖を軽く引けば、問題ないと首を横に振られた。

 それってきっと大丈夫じゃない、と思う八尋を他所に、朧は先ほどの流れで放り出されてしまった主人の学生鞄を拾い上げた。

 

 「ひとまず彼が目を覚まさない内に此処から離れましょう」

 「でも、……」

 「行きますよ」

 

 此方に拒否権はないらしい。

 朧は、言い淀む八尋の身体をひょいと抱え上げると、横倒しにされたゴールネットを足場にして石塀を軽々と乗り越えた。

 人を一人抱えても足取りは変わらず軽い。それを見る度、細身の身体の何処にそんな力があるのだろうか、と考えるものだ。

 

 

 

 

 

 「……」

 

 それから暫く。

 朧は八尋を抱えたまま、人目のつかない裏道を選んで黙々と歩いていた。あの、と八尋が声をかければ、「何ですか」と律儀に返事がある。

 

 「俺、怪我してないから、歩けるよ…」

 「存じております」

 「……」

 

 分かっているなら下ろしてほしいんだけど。

 そう思うが、声にすることは憚られた。 何故か、朧が怒っているような気がしたからである。表情も声色も、普段と変わらない筈なのだが。

 

 「……朧さん」

 「はい」

 「…怒ってる…?」

 

 試しにそう訊いてみれば、彼は「いえ」と短く返答した。

 

 「何故そう思われるのですか」

 

 何故か。

 八尋は何とも言えず、沈黙してしまう。

 これだ、という理由を用意するのは、非常に難しい。そもそも無表情の朧から感情の変化を感じ取るのは容易なことではない。これはもう、第六感に近いものがある。ゆえに、明確な答えを要求されても、答えることは出来ない。

 

 「……」

 「…僭越ながら申し上げますと」

 

 腕の中で黙考する主人を見下ろしていた朧は、少し考えた後で口を開いた。その声につられて、八尋の意識は傍の護衛に向けられる。

 

 「……?」

 「坊ちゃんは、無防備過ぎるのではないかと思います」

 

 あのまま私が割って入らなかった場合、どうなっていたかお分かりですか。

 淡々とした口調で述べられた台詞は、よく注意して聞いていなければ質問として捉えられなかっただろう。

 此方を見下ろす黒曜石の瞳は、何の感情の色も乗せていない。先ほどの男子生徒と違う深い闇色に、件の獣は見当たらない。八尋は何故かそれに安心して、するりと答えが口をついて出た。

 

 「……たぶん、食べられていたかなって…」

 「…半分正解です」

 

 これが本当に理解した上での比喩ならば、半分と言わず満点合格だったろう。

 

 目は口ほどに物を言う。

 純度の高いアクアマリンにタンザナイトを細かく砕いて散らしたような瞳には、一点の曇りも見られない。その目を見て確実に分かることがある。彼はあそこまで迫られて尚、さしたる危機を感じていなかったのだ。

 いや、多少の違和感くらいは覚えていたかもしれない。了解を得たとばかりに服を脱がそうとしていた男子に向けて、僅かに伸ばしていた白い手を思い出しながら、朧は考える。

 殺気を含めた負の感情には敏感だが、好意やそれから来る邪な感情にはおそろしく疎い。端から見ていて、主人は危うい。普通の子どもが持つ危機回避能力は、暁家という異常な空間では残念ながら育たなかったようだ。

 

 「(…それがどんなに危険なことか知らないで)」

 

 危険、という単語と共に脳裏に思い浮かぶのは、忌々しい昔馴染みの長髪男である。

 常に穏やかな笑みを浮かべるあの男は、喜怒哀楽の内『喜』以外の感情が死んでいる。つまり、主人が察知出来る殺気を作り出すことが出来ない体質だ。敵か、味方か。殺気がその判断材料なのだとすれば、彼はあれを疑うことなく『無害な人間』に分類してしまうことだろう。

 無論、自分が傍にいる限り、そのような人間を近づけさせるつもりはないが、万が一の場合もある。

 八尋の性格上、幼い子どものように甘言に惑わされることはないだろうが、「道を教えてくれ」の一言であっさりと車に連れ込まれることはあるかもしれない。寧ろ想像に難くない。

 仮にそういった状況に陥ったとしても何とかしてしまえるだけの技量が彼にはある。だが、問題はそこではないのだ。

 

 「……」

 

 屋敷への道を急ぎながら、朧はちらりと視線を上げた。こうして間近で見る少年の顔は、相変わらずぞくりとするほど美しい。

 異国の血を色濃く引いたその顔には、何の表情も浮かんでいない。冷えた外気に晒された白雪の肌には、僅かに朱色が差し込んでいる。――と、そこで緩く結ばれていた莟紅梅色の唇が微かに動く。

 八尋が此方の視線に気づいたらしい。蜂蜜色の長い睫毛に彩られた二つの藍玉が、どうしたの、と言いたげに此方を見つめてくる。

 それに対し、朧は表情を変えないまま、ゆるりと頭を振ると、

 「坊ちゃん。この状況を今すぐ改善できるとは思いませんが、まずはご自身の容姿が周囲に与える影響をよく理解していただかないといけません」

 「…?…うん…」

 

 いいですか、とその瞳を覗き込めば、八尋はぱちり、と緩慢に瞬きして、曖昧に返事をした。

 それから彼は、「同じようなこと、前にも言われた」という呟きを落とす。この現状を目の当たりにすれば、そう考えるのは当たり前だろう。考えることは皆同じだ。そして、その危うさに気づいていないのは本人だけなのだ。

 

 朧は小さく吐息して、主人の身体を抱え直した。

 その時点で八尋は、朧が当分自分を下ろすつもりがないと理解したらしい。彼は仕方なく、せめて抱えやすいようにとその腕を朧の首に絡めたのだった。